量子論の果てなき境界: ミクロとマクロの世界にひそむシュレディンガーの猫たち 単行本 2015/11/25
という新刊本を借りてきて読んでいる。 これは本当に数十年ぶりで現れた、まともな量子論と観測の問題のまとまった「日本語の本」だと思った。これは買うかなあ。
実のところ、これ以前では、
量子力学と観測の問題―現代物理の哲学的側面 (1971年)
B.デスパニヤ (著), 亀井 理 (翻訳)
出版社: ダイヤモンド社 (1971)
ASIN: B000JA2QJE
が有名で熟読したものだが、当方にとっても「未解決」「わけがわからない」「こんな妖しいものが現代物理学の基礎なのか」「結果がよければいいんじゃないのー(無責任or論理実証主義)」
という感じで放り出していた。
ここで問題になるのは、量子光学・量子コンピューターなどの発展によって、量子効果が巨視的な世界に侵入することがざらにおこるようなことになってきているという時代背景があるので、1970年ごろデスパニヤが書いたころとは、かなり違った見方ができるようになってきたことだ。量子テレポーテーションの実験さえ行われているらしい。
この本のブックデザイン・猫のイラストレーションは非常に良いので、イラストレーターを知りたかったが、どうもよくわからない。原書の表紙は少なくとも邦訳書とは違うようである。
この件の議論は、物理学者は基本的には避けてきた。役に立たない空論・業績にならない仕事という位置づけで、こういうところに足を突っ込んだ学者は「終わった研究者」として蔑視されたものである。
しかし、これにはなにか深い意味がある。それは人間の言語や思考の限界に触れるものかもしれない。
あまりできの良い小説ではないが、これは、観測者としての「神」あるいは、意思による世界の選択という量子論の危ない問題を触れたもののように思っている。
奇人とさえよばれたホイルだから、この問題についてもなにか提案がなかったのかなあ。
また、昔、優れた相対性理論学者だったベルギー人:ルメートル神父(カトリック)が、ローマ教皇に科学については発言しないよう進言したことを思い出した。この不思議な量子論の問題をローマ教皇が少しでも理解したら「世界の観測者としての『神』」という、危ない教理を教書に出さないとも限らないだろう。